日本の不動産王、森泰吉郎とはどんな人物か


不動産投資は、サラリーマンの資産形成としてもポピュラーな方法の1つです。2012年末から始まったアベノミクスや2013年に開催が決定した2020年東京五輪の影響もあり、不動産地価が上がっていますし、将来の年金不安などから資産運用を真剣に考え出す方が増えたことなどがその背景にあります。

不動産投資の特徴はいくつかありますが、1つはローンを組んだ場合にレバレッジを効かせやすいことです。不動産投資は購入する不動産を担保にローンを組み、月々の賃料収入を返済に充てていくという手法が取れますが、キャッシュフローがプラスにできれば、理屈の上ではいくらでも投資物件を増やすことが可能です。ただ実際は融資審査での融資可能額の上限もありますし、空室や大規模修繕等によりキャッシュフローを必ずプラスにできるとも限らないのでなかなかそのようにはいきません。

ただ不動産王と呼ばれるような成功者にはまさにこの理論通りに財産を拡大していった人物も多く、その1人が森ビルの創業者、故森泰吉郎氏です。
その1人が現在不動産業界第3位、森ビル・森トラストの創業者森泰吉郎(もり たいきちろう)氏です。
今回の記事では戦後日本の不動産王、森泰吉郎氏の人物に迫ってみましょう。

かつては世界第2の億万長者

泰吉郎氏は昭和の著名人ですが、故人となってしまったこともあり現在はそれほど有名ではないかもしれません。生い立ちや経歴の前に、なぜ注目に値するのかという部分を見ていきましょう。

泰吉郎氏は1904年(明治37年)年に現在の東京都港区で生まれます。実家は裕福な米問屋兼大家業だったようで、泰吉郎氏は父親から港区の広大な土地を受け継ぎます。ただそうは言っても当時の港区は現在のような姿ではなく、東京の中心地というわけではありませんでした。初めから実業家だったわけではなく、なんと50歳過ぎまでは学者として過ごし、横浜市立大学商学部長・教授を務めています。
昭和の有名経営者は様々な人物がいますが、それでも元大学教授の大企業経営者(創業者)は他に見当たりません。

戦前から戦後にかけて泰吉郎氏は港区の土地を買い進め、貸ビル業へと進出します。その後、銀行からの融資を受けまた港区の不動産に投資し、不動産業・貸しビル業から港区に基盤を持つディベロッパー業へと成長していくのです。
いくつかの幸運にも恵まれて港区は発展、高度経済成長やバブル景気を経て地価はうなぎ上りに上昇しました。バブルによる短期的な押上といえばそれまでですが、1986年からはじまった米フォーブスの世界長者番付では常連2位となります(1位は同じく日本の不動産王、堤義明氏です)。1991年と1992年には森泰吉郎氏が1位を取りました。

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流石にバブル崩壊後は順位を大きく落としますが、それでも資産10億ドル以上のビリオネアとしての立場は保ち、後継者となった次男森稔(みのる)氏や三男森章(あきら)氏もビリオネアに名を連ねています。
どのようにしてこれほど経済的な成功を収めたのか、またその人物像はどのようなものだったのかを見ていきましょう。

森泰吉郎氏の生い立ちと経歴

まずは泰吉郎氏がどのように不動産ビジネスを拡大していったのか、その生い立ちを追いながら見ていきます。

貸し屋業を営む家に生まれて

泰吉郎氏は1904年(明治37年)現在の港区に当たる当時の東京市芝区南佐久間町に生まれました。実家は裕福な米問屋兼大家業で多くの貸家を所有する裕福な家庭でした。元々は泰吉郎氏の祖父が日本橋で煙草屋を営んでいたのですが、火事で焼け出されたのをきっかけに父の磯次郎氏が米問屋を立ち上げ、その商売が軌道に乗ったため収益を不動産に投資し土地を買い集めて行きます。購入した土地のほとんどは現在の港区となる辺りで、港区に集中投資する森ビルのスタンスは森泰吉郎氏の先代の頃からのものだったのです。

当時のこの一帯は現在の港区のように発展していたわけではありません。港区がオフィス街や歓楽街として発展していったのは戦後のことで、おそらく磯次郎氏もここまでの発展を予測していたわけではなかったと思われます。
例えば六本木は日本を代表する歓楽街の1つですが、そうなった理由は戦後米軍基地が六本木に置かれたからです。米兵が基地の近くで遊びだしたことがきっかけで、六本木は華やかな歓楽街として発展していきました。こうしたことを戦前から高い確度で予測するのは難しかったでしょう。
泰吉郎氏自身、ご自身の成功要因の1つに運の存在は大きいと言っており、謙遜もあるとしても、運の部分もあるものと思われます。

なお、父親の磯次郎氏はとても人情味に溢れた大家だったそうで、店子が家賃を払えず困っていても待ってあげることが多かったそうですし、経済苦が理由で進学できない店子の子供に学費の支援をするようなことも多かったそうです。時には店子の夫婦喧嘩の仲裁までしていました。
そのような大家だったため、磯次郎氏は店子の人たちに慕われていたらしく、泰吉郎氏も家族をはじめ多くの人に可愛がられて育ったそうです。
なお森ビルといえば赤坂アークヒルズにしても、六本木ヒルズにしても地権者が入り乱れた複雑な開発を成功させてきたところに飛躍の理由がありますが、森家とゆかりの深い地主などが反対派の説得に回ったエピソードが有名です。父親の代から築いた信用がこのような大企業の発展の礎にあるのもすごい話と言えるでしょう。

学者への道とそこでの出会い

ただ素晴らしい実業家の子供として生まれた泰吉郎氏ですが、勉強ができたこともあって父親の跡を継いで実業家になる道ではなく、はじめは学者を志し実際に教授として横浜市立大学商学部長を勤めました。
2017年現在はソ連邦の崩壊から30年近く経ち、共産主義的な思想は完全に終わったものと扱われていますが、戦前は共産主義が非常に先進的な思想として注目を集めていました。そして富裕層の子息で勉強ができ、かつ心根も優しかったような人たちの間で大流行してました。泰吉郎氏も自分の”恵まれた境遇”に非常に悩んだと伝えられています。
そうした思いを抱いたことが学者への道を歩ませた理由の1つではあったのでしょう。

ただそのような思いを抱きつつ、泰吉郎氏が極端な左翼運動家になることを押しとどめ、将来事業の世界に戻ってくるきっかけを提供した人物がいます。
それが東京商大(現一橋大学)教授、上田貞次郎氏の「企業者は私利私欲のために事業を営む極悪非道者だと説く者があるけれども、自分の知る多数の企業者は公共社会への貢献を使命と考え、新しい創造のために才能を傾けることに無上の喜びを感じている」「支配するものは土地貴族、金権貴族ではなく、才能の貴族である」という言葉です。
東京商大で学んでいた泰吉郎氏はこの言葉に触れることで、自分の境遇を使命と捉え、思想的なバランスを取って行ったのです。

実業家への転向

学問の世界に身を置きつつも実業家としての使命のようなものを感じていた泰吉郎氏は実家の手伝いも行っていたようです。例えば1923年に関東大震災が起きて実家の所有物件がほとんど倒壊したのですが、その際には焼け跡の片付けを行いながら災害に強いコンクリート造への建て替えを進言しています。

なお関東大震災以降、森家は土地を買い進めており、震災当時には500㎡ほどだった所有地は戦後には郊外も合わせて2000㎡ほどにまで膨れています。
また泰吉郎氏の先見の名を示すエピソードとして有名なのが、1946年の新円切り替えです。当時敗戦と戦災、そして復興のための財政出動のため日本は凄まじいインフレに襲われており、政府はその対策として新円への切り替えと事実上の預金封鎖を行い、新円の切り替えに伴って、引き出し・両替可能な金額に制限を設けました。そして経済学者としてそうした動きを察知した泰吉郎氏は、その前に旧円を引き出しこれまた需要急増を予想していた人絹(レーヨン)を大量購入します。この予測は大当たりし、元金は何十倍にも膨れ上がりました。そして一連の出来事で得た収益を虎ノ門界隈などの不動産購入に充てるのです。
こうして手に入れた不動産は1956年頃には元の所有と合わせて6600㎡にまで膨れ上がっていたと言われています。

そして、家業と大学教授の二足の草鞋を続けていた森泰吉郎氏は1955年に森ビルの前身となる森不動産を立ち上げています。また翌1956年には、森トラスト・ホールディングスの前身となる泰成を立ち上げました。
この少し前から所有する土地の整理と並行して本格的な不動産開発に力を注いでおり、俗に言うナンバービルの開発に着手しています。これは虎ノ門界隈を中心に建てられるオフィスビルで、順番が前後しますが、1956年4月に西新橋2森ビル、1957年11月に西新橋1森ビルを竣工しました。
1959年には55歳で大学教授も退職し、より本格的に不動産業に進出していきます。
所有する不動産を担保時に銀行から融資を受け、そのお金で新たに不動産開発を行いその不動産を担保に新たな融資を受けるという手法で周囲が危ぶむほどの事業展開を進めていきます。
その勢いは凄まじく、1970年頃には資本金7500万円に対して借入金が58億円まで膨らんだこともありました。しかし、高度経済成長期を背景に、オフィス機能が都市集中するトレンドを上手く掴まえて事業を拡大していきます。
後から歴史を振り返れば「上手いことやった」というように感じられるかもしれませんが、特に戦後の混乱期などは誰も将来の事などは分からず、不動産暴落論も勢いを振るっていた頃です。そうした中で積極的な投資を進める事が出来たのはやはり先見の明があったとともに、果敢にリスクを取ったことが功を奏したと言えるでしょう。

なお上記のようなナンバービル建設のような不動産開発は、ラフォーレ原宿など一部の例外を除いて虎ノ門周辺に一点集中して行われました。これはそのエリアに魅力やポテンシャルを感じていたこともあるのでしょうが、集中することによって街自体の魅力を高め、相乗効果を発揮する意図があったと言われています。単一の不動産としてではなく、地域全体のデザインにも積極的に取り組んでいったのです。1986年にはアークヒルズが竣工しましたが、この開発では「職住近接」や「都市と自然の共生」、「文化の発信」などをコンセプトにオフィスエリア以外にも住宅やホテル、コンサートホールなどを設けられました。
またこの年には、森ビルの所有する賃貸ビルは73棟、延床面積は約100万平方メートルに達して不動産業界第3位の規模となります。まさしく日本の不動産王と言えるでしょう。

森泰吉郎氏の人物像と経営哲学

上記のような事業の成功の結果、バブル景気の追い風もあって泰吉郎氏は大富豪となり、1986年に始まったフォーブスの世界長者番付では初年度第2位となり、1991年と1992年には1位となります。残念ながらバブルの崩壊以降その順位は大きく下がっていきますが、それでも著しく凋落してしまったコクド・西武グループの堤義明氏と異なって泰吉郎氏は財産を保ち続けます。
1993年にその生涯を終えるのですが、晩年もフォーブスの番付では1兆円を超える資産を有しており、その後継者である森稔氏・森章氏はフォーブスのランキングで国内上位を占める日本の代表的な億万長者となりました。
なお死亡時の課税遺産額は39億円と言い伝えられていた資産額に比較して少額です。これは支配していた財産のほとんどを法人所有としており、その法人株式も早期に後継者に渡し、また評価額が下がるように工夫していたためと言われています。また遺産からは30億円を慶應義塾大学へ寄付されました。

最後に泰吉郎氏の人柄なども振り返ってみましょう。

堅実・真面目な人柄

泰吉郎氏を知る人物がその人柄を振り返った際に語られるはともすれば「面白みが無い」と感じるほどに真面目で誠実な人柄です。酒も煙草も嗜むことはなく、趣味もそれほどなかったと言われています。そのため宴席にもほとんど出席しませんが、どうしても出席せざる得ず、かつ歌の1つも歌わざる得ないというような時には、ドイツ語でシューベルトの歌曲を歌うような人でした。
日常会話の話題も高尚で、口を開けば論語が飛び出し、それが終わればプラトンやソクラテスの哲学について講義が始まるという具合です。流石元大学教授と言えるでしょう。

こうした学者的な側面が、森ビルや森トラスト・ホールディングスの合理的な経営を支え、また社員の育成に熱心な社風の礎になっていったと言われています。

教育熱心で合理的な経営スタイル

日本で経済学者出身で大成功した実業家や大富豪はほとんどいません。おそらく泰吉郎氏ただ1人であり、作家の邱永漢氏も「東大や一橋をはじめとする大学の経済学の先生で、実際に自分で大金を儲けた人はいない。学者であって戦後の経済の動きをつかみ、実業家として大を成したのは森ただ一人。まことに珍しいケースだ」と述べています。

しかし、泰吉郎氏の経営スタイルは学者風の非常に合理的なものでした。都心の港区、それも虎ノ門界隈に開発の焦点を絞ったこともそうですし、新円切り替え時のエピソードも見事な経済観と言えます。
また土地の購入時にも無理はせず、地域の地権者と共同事業を行ったり、底地を買って借地権者と共同事業を行ったりする手法などは現在の不動産業界では一般化していますが、これらは森ビルが走りと言われています。そしてこうした手法はアークヒルズや六本木ヒルズの開発でも用いられ、その成功に大きく貢献しました。

また55歳までは学者であり教育者でもあった泰吉郎氏らしく、社員の教育にも非常に熱心だったと言われています。若手社員に対して直接教育を施すことも多かったらしく、インタビューを受ける際には常に若手社員を10名ほど同席させ、講義代わりとしていました。自らの講話をテープに録音し、社員の教材とするようなこともしています。
森トラスト・ホールディングスの時期社長と目されている伊達美和子氏は森章の息女であり、泰吉郎氏の孫に当たりますが、一族の中でも特に優秀だった美和子氏を泰吉郎氏は可愛がり、大学卒業後は経営者候補として自分の手元で育成したがっていたというエピソードも美和子氏の口から語られています(美和子氏が外の世界での修行を望んだため実現はしませんでした)。

経営の世界には「三流は金を遺し、二流は事業を遺し、一流は人を遺す。」という言葉がありますが、泰吉郎氏はその全て遺した超一流の経営者だったと言えるでしょう。


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One thought on “日本の不動産王、森泰吉郎とはどんな人物か

  • 2019年4月21日 at 1:57 AM
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